居場所2008年12月18日 13時25分22秒

日本の良いところってのを考えた。
年末になったら、とりあえず今年あったいろんなことを気持ちの上でリセットして、
新しい年を新鮮な新たな気持ちで迎えるってところかな。
まあ、ある意味過去に無責任とも言われる所以だけど。
大掃除して、除夜の鐘聞いて、新しい歳神様をお迎えして、心機一転ヨシッやるぞって。
甘いかな。
でも、このいい加減さがいいよね、日本って。

で、唐突に思った。
もう21世紀なんだから、今までやっていた悪いこと、
みんなでやめましょう。
今だったら、まだ十分間に合うよ、きっと。

なにがって?

だからさ、もう来年から悪事に加担するの、やめませんか。
仕事ではあるけれど、こころの中で「こんなことやっていいんだろうか」って思ってることとか、
どうにも人として納得できない仕事だったら、やめましょうよ。
俺ら非力だから人を助けたり救ったりするのは、命がけでも難しい。
助けたり救ったりできるのは力をもっているやつらの仕事。
でも、非力な俺でもほんのちょっとした心構えくらいならできるかなと思う。

今のあなたは仏になったり悪魔になったり、ふらふらふらふら振り子のようで。
でも、人の気持ちが抜け落ちている。どうです?

人を陥れたり、人の前途や希望を断ち切るようなこと、命令だからとか仕事だからと嫌々やるのはやめようよ。
もしそれをやらなければ、より多くの人が苦しむ、というなかの苦渋の決断だろうけど。
だから、やるんだったら、子々孫々恨み殺されるの覚悟でやれよ。
仏面してやるなよ。
シカトすんなよ。
いい人を装ったりとか、自分も被害者です、みたいな顔をしてやるなよ。
鬼になって、悪魔になって地獄に落ちるの覚悟でやれよ。
その覚悟ができないなら、悪いこと、やめましょう。
ね、ご同輩。
俺にもそんな覚悟、できません。

文句ばっかり言うのやめて、
みんながほんの少しずつ我慢すれば、
なんとかならないんだろうか。
人を殺すことより、人を生かすことを考えてるほうが、
よっぽど自分も社会も幸せになると思うんだけど。
どうでしょう。

甘いかな。甘いよね。
でもこれからも人として生きて人として死にたい。

あなたの住む場所。俺の住む場所。人の住む場所。

亡者2008年12月17日 23時22分44秒

JAPAN繁栄への回帰
12月に入ってすぐ、Tからメールがきた。
「木の目、今年はおおむねよかったようだけど、来年はもっといい年になるよ。
ただし亡者にはどうかな。
とにかく俺が言った通りに進め」

Re:
「また占い、はじめたのか?
確かに、今年はそんなに悪くはなかった。
来年もこのまま行けば今年よりよくなるのは間違いない。
で、亡者にはどうかな、って意味わかんないぞ。
それと、俺が言ったとおり、って???」

こっちからメールしたって返ってくることは、稀だ。
いつも一方的だし、ときどきメールアドレスも変わる。
いつも酔っ払ってTの話を聞いてるから、細かいことまで覚えちゃいない。
いつものことだ。

亡者って、金の亡者のことなのかなぁ。
『亡者』:角川国語辞典によると
①死んだ人。
②死後、成仏しないで、あの世で迷っている人。
③金銭などの欲望に取り付かれている人。


先日忘れたころに、Tから返事が来た。
「繁栄への回帰p40」


10年ほど前にTが薦めてくれた本だ。
『JAPAN 繁栄への回帰』ラビ・バトラ著(総合法令1996年)
40ページには

~(知識人、特に経済学者たちによれば)カネが人生の最終目的であるという。
その徹底的で非常なまでの効率性の追求のためならば、たとえ業績が好調で多くの利益をあげていても、企業はどんどん社員を解雇すべきであると彼らはいう。この論理の下、多くのアメリカ企業は際限無き利潤追求のために、何百万の労働者を解雇してきたのである。経済学者たちは公共の福祉、つまり経営が潤滑に行われ、企業が健全な経営をして利益を上げれば、それが社会全体の福利につながるという名目の下に、企業側の貪欲さを正当化している。そしてその論理が本来の社会福祉を必要とする罪のない人々、そして女性や子供の生活を混乱させ、破壊してきたということを忘れている。~

と書いてある。
うーん、やっぱりわからん。

ラビ・バトラ氏の本はこのとき何冊か読んだのだが、
ちょっとなんというか、違和感があって全面的に賛同できんかも、と思った記憶がある。
ラビ・バトラ氏といえばソビエトの崩壊を予測したことで有名で、2010年までに資本主義の崩壊を予測している。

まあ、いずれにしても、できることはできるし、できないことはできないから
ありがたくご高説を賜って感謝しながら今日は寝ることにしよう。

Re:
「T、ありがとう。でもやっぱりわからないからぐっすり眠って明日また考えてみる。木の目」

備忘録22008年05月27日 05時32分45秒

わからないことだらけなのだ。

異界に通じる扉。
なぜ人は桃源郷を求めるのか。
鏡とは?対称性とは?

幕末から日清日露戦争を市井の人はどう見たんだろう。
せいぜい100年から150年ほど前のことなのに、わからない。
何を求めて死に、何を捨てて生きたのだろう。

榎本武揚はなぜ自刃しなかったのか。
福沢が痩せ我慢の説で糾弾したのは、何だったのだろう。
陸奥のような国家戦略を考えられる外務大臣を使いこなした
伊藤博文は、どんな世界を見ていたのだろう。

カイエ・ソバージュ 中沢新一を読んでいる。
『人類最古の哲学―カイエ・ソバージュ〈I〉』
『熊から王へ―カイエ・ソバージュ〈II〉』
『愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュ〈III〉』
『神の発明 カイエ・ソバージュ〈IV〉』
『対称性人類学 カイエ・ソバージュ〈V〉』
V、I、IVと読みはじめてしまったから、なんだかたいへんだ。
で、結局、「神話と意味」レヴィ・ストロースを読んだ。
フランス語の翻訳でなくて良かったかも。
英語で自分の考えを解説をしたようなレヴィ・ストロース入門の手引きかも。
内田樹『寝ながら学べる構造主義』ですら読むのをご遠慮していたのに。

でもなんとなく詩とか音楽とか見えないものを、自分が求める理由が分かるような気になるのが不思議だ。
まあ、だからといって何かわかったわけではないのだ。

ただ、人はなぜ無意識のなかに意味を求めるのか、考える道筋ではある。
神話がなぜ必要なのか。
異界なのだ。

うんと幼い頃、昼寝をしては泣いていた。
自分はどこからきてどこへ行くのか。
見たこともない過去と見ることのない未来の夢。
心の奥底で聞いた声の意味は捉まえられないまま。
でも、歩くことが自分が生きる意味なのだと気づいた。

ライラックが、いつの間にか満開である。

第45話 学芸会2006年11月12日 19時48分00秒

みぞれが降った。
ひどい嵐である。
本日は息子②の学芸会。
父親委員は本日駐車場係。朝7時50分から9時過ぎまで。
比較的わがままの少ない父兄が自慢の学校ではあるが、さすがに今日は何件か苦情を言われた。
大嵐で、足元が悪いので、いい場所に止めたいという気持ちはわかる。
しかし、歩行者、とくに低学年の児童の安全を最優先にしなければいけない。
ベンツとかアウディに乗ってくる女性、とくにおばあさんが一番悪い。
自分さえよければの典型である。
父親委員は比較的時間の余裕のある自営業、とくに医者や若手経営者の人も多い。
先生とか公務員の人もいる。わたしのような典型的なサラリーマンは少ない。
みんなボランティアで、びしょぬれになり泥だらけで笑顔で対応している。
腹は立つが、児童の学芸会を気持ちよく支えていこう、という意気が感じられる。
春に、父親委員の会合(飲み会)があったとき、われわれオヤジが若い先生たちを支えようと気勢を上げた。
オヤジが学校を手伝えることといえば、構内掃除、学校菜園の草取り、花壇の整備、運動会の手伝い、駐車場の整理ぐらいなものである。
できるときにできる人が手伝う。強制はしない。非難もしない。
先生の手の回らないことを、黙々と手伝うのである。
オヤジが若い人生経験の少ない先生を支えなければ、学校は責任のなすりあいの場になってしまう。
わたしたちは自分の子どもを預けている先生と学校行事を支えているのである。
土台がしっかりしないと、安心安全はかけ声だけの他人任せの無責任だろう。
やせ我慢の回り道。父親委員のオヤジたちである。
先生を招いての忘年会が楽しみである。

第23話五嶋龍ヴァイオリン・リサイタル2006年06月27日 22時28分59秒

本日、Kitara大ホールの五嶋龍ヴァイオリン・リサイタルにいった。
すばらしかった。
家でCDを聞きながら書いているのだが、やはり生の迫力とは比べようがない。
あの、観客に挑むような間合い。
ぴりぴりとした殺気、くつろぎ、悲しみ、優しさ、喜び。
あぁ、よかった。
女房息子1,2,3ともに大感激でした。